手首の感覚が、もう無い。男が姿を消してから一体どれくらい時間が経っただろう。後ろ手に縛られたまま、目隠しをされて随分経つ。辛うじてベッドの上に寝かされているけれど、負荷がかかっている右肩はもう限界を迎えている。でも体勢を変える気力なんてない。どんなに喉を動かそうとも、乾いた喉からは何の音も出なくなっていた。
ーああ、もう……。
全部を諦めてしまいたい。おかしくなりそうな頭で思うのは、それだけだ。次、この部屋の扉が開いたら、また苦しいのが始まる。男の気まぐれに生かされ、楽になることも許されない。
どうしてあの道を、何の考えもなしに歩いてしまったのだろう。どうしてあの男を、私は目撃してしまったのだろう。
「……っ!!」
何度も悔いたはずの選択を、意味もなく思い返していた時、扉が開く音が聞こえた。悔しくも反射的に、身体は大きく跳ね上がる。全てを諦めたいと思っていたくせに、いざこの時が来ると身体は正直に震えてしまう。まだ何も、されていないのに息は乱れ始める。
そうして神経を研ぎ澄ましながら男の気配を感じ取ろうするけれど、今日は何故か、いくら待っても男が近づいてこない。
「どう……る?バーボン」
「……る、しか」
聞こえてきたのは、日本語を話す2人の男性の声。予想もしない状況に訳がわからなくなる。
ーもし、かしたら……
不意に、都合の良い考えが頭を過ぎる。気づくと、冷え切っていたはずの身体がじんわりと熱を帯びてくるようだった。
ーお願い、助けて……!
ー出して……ここからっ!
「待て、スコッチっ!」
そう思って身体を彼らの方へ向けた時、誰かが声を上げる。声のボリュームは抑えながらも力強く、私の方が動きを止めてしまう。一方で、本来止まるべき誰かが、制止も聞かずにこちらへ近づいてくるのも分かった。
コツコツと、コンクリートの床を鳴らしながら。その存在は燃えるように熱く、でもどこか懐かしい。
「……っ」
無意識に、助けてと、言いたくなっていた。何故か助けてもらえる、ような気がしていた。乾き切った唇は割れて痛む。それでも口を開き、細く息を吸って精一杯、喉に力をこめる。
「……っ!!」
その瞬間、口元を強い力で押さえつけられた。顔が反ってしまうほどの力で塞がれ頭の中がパニックになる。
「Shhh……It’s fine. I’m not gonna hurt you.(静かに……大丈夫、何もしないから)」
ああ、“彼ら”は例の男の仲間だったのだ。そう思ったのに、男性の声は拍子抜けしてしまうくらい優しい。口を塞いでいるのは、彼の、手のひらなのだろう。彼の指が私の鼻も塞いでいると分かったのか、手の位置を少しだけずらしてくれた。
「Please, don’t scream. I’m just gonna take off your mask.(どうか騒がないで。これ、取ってあげるだけだから)」
必死に、鼻で大きく呼吸をしていると、彼は私の目隠しに触れながらそう言う。あと、眩しいだろうから無理に瞳は開けないでねと、まるで子供に言い聞かせるように英語で付け加えて。
「It’s fine……(もう大丈夫だからな)」
私が静かに頷くと、彼は片手で目隠しの紐を緩めていく。後頭部に手を回された拍子に、ふんわりと、洗い立ての柔らかいリネンの香りがした。
ーああ、どうしよう……
目の前の男性の行動全てが優しくて、思わず涙が溢れそうになった。でも、状況は何も分からない。
ーお願い。どうか、酷いことだけはしないで。
祈るような思いで固まっていると、丁寧に目隠しの布が取られていった。まだ目は開けていないのに、瞼の向こう側が眩しすぎて前を見れない。
「Are you all right?」(大丈夫かい?)
彼は、確かスコッチと呼ばれていた。きっと優しい人なのだろう。それだけは分かるけれど今は何も答えられない。沈黙する私の反応をどう受け取ったのか、彼が後方に視線を向ける(ような気配がした)。
「どうするバーボン、ライには……」
「おい……」
少し安心したのも一瞬。誰かが階段から降りてきた。カッ、カッ、と、この静寂をかき消すかのようなオーラを纏いながら、それでいて確実に存在感を示すように確実に。
「何をしている」
低く、冷たい声が部屋に広がっていく。ピリっとした空気が一瞬にして流れていったのは、何も見えていない私でも分かる。その問いに対して、誰も返事をしない。
私の瞳は徐々に光に慣れ始めたようで、少しだけ瞼を上げることができた。僅かな隙間からは水色のパーカーを着た男性が見える。
「ライ、彼女は……」
部屋の奥には髪の明るい男性と、ライと呼ばれた黒い人。
「厄介だな、顔も見られているとは」
でもライは相手の話を遮り、私へ鋭い視線を向ける。いかにも煩わしそうな物言いと、視線を合わせずとも分かる冷たい瞳。とてもライの方を見ていられなかった。彼が放つ殺気は異様だ。
「問題はそこではありませんよ……そもそも、」
この人がバーボンなのだろう。ライに詰め寄るけれど、ライはそれに動じずに言い返している。何を話しているかは聞こえないけれど、私のことであるのは確か。話し合いの結果によっては、私など簡単に始末されてしまうのだろう。
ーああ、どうして。
一度、諦めた命であるはずなのに、僅かな希望を見出してしまったからか今になって縋りたい思いが込み上げてくる。
「ね、君……日本人?」
咄嗟に顔を上げると、パーカーのフードを被ったお兄さん、スコッチは、まるで心から心配しているかのように私の顔を覗き込んでいた。近くにあったブランケットを手繰り寄せて、私の、剥き出しだった腿に掛けてくれる。冷え切った身体に感じる柔らかな布の感触。さらりと、撫でられる肩。あまりにも優しい瞳。
「そうなんだね?」
自分の直感をただ信じて静かに頷くと、お兄さんの表情がさらに柔らかくなった。
「やっぱり……手、解くよ」
言葉通り、優しく縄が解かれるとようやく自分の身体が自由になった。でも動ける気がしない。
「身体、一回起こそうか」
ほとんどお兄さんに持ち上げられるように上半身を起こすと、身体中が割れそうなくらい痛んだ。固まった筋肉が、神経が、悲鳴を上げている。それも分かってか、お兄さんは私の背中を撫でてくれる。
「おい、その女、日本人なのか?」
けれど、この会話を聞きつけたライの様子が一変した。日本人だと都合が悪いのだろうか、言葉の節々に棘を感じる。
「ああ、そうみたい……って、ライっ?!」
ライは私が日本人だと分かった途端、一気にベッドまで近づいてくる。お兄さんを後方に押しやりながら、片手で何かを取り出し、それを私の額に押しつけた。
「……っ!」
かちゃりと、嫌な音と共に、ひんやりとした鉄の感覚が額から伝わってくる。これは、銃だ。今、銃口を向けられているのだと遅れて認識する。喉の奥がひゅっと、鳴った。
「例の男は日本人。ならばこの女が奴の差し金である可能性も、あり得るだろう」
「いや、ライ。彼女は、」
「ぬるいな、スコッチ」
ライは、ベッドに膝を乗せると私の肩を強く押す。なんとか両肘で身体を支えるけれど、視界にはもうライしか入らない。
「ライ……彼女はどう考えても民間人だ」
スコッチが絞り出すような声で、ライに言った。
「何故そう言い切れる?それに男が消息を経ってから既に時間が経っている。いつ、此処に警察が来てもおかしくない」
「ライ、だが」
「おしゃべりが過ぎるな、スコッチ」
ライは、お前の意見は聞いていないと言うように銃口をスコッチへ向ける。
「痕跡は全て消し去る、そうだろう?」
ライの言葉を最後に、部屋は沈黙に包まれた。あのお兄さんも、バーボンも、ライには逆らえないのだろうか。そんなパワーバランスを知ったところで、どうしようもないというのに私はライがこちらを向く様を見ながらぼんやりと思っていた。
ライは私に再度銃を突きつけながら、胸ポケットから何かを取り出す。小さなそれが、薬なのだと分かった瞬間、心臓の鼓動が大きく脈打つ。
ーああ、こんな、訳も分からず……。
このまま、終わるんだ。すっかり乾ききっていたはずなのに、視界が歪む。ライは静かに私を見下ろしていた。
「飲め」
ライが錠剤を私の口へと入れ込む。そのまま私の身体の横に手をつくと、後ろの二人に背を向ける形で私に覆い被さった。途端に世界が黒に支配されたかのような感覚に陥る。ライの長い髪の毛が頬に当たる。まるで感情までも支配されてしまったかのように動けない。
「手間取らせるな」
苛立ちを露わにしながたライは、銃口をさらに強く私の頬に当てがった。下唇に乗った錠剤が唾液によって徐々に溶けていく。分かっているけれど、ここで素直に飲み込むことができない。ライは小さく舌打ちをすると、私の耳元へ顔を寄せる。
ー“眠るだけだ”
そう、耳打ちされた気がして、私は再度ライを見た。でも彼は先程と変わらずと私を見下ろしているだけ。でも、その瞳は少しだけ……ほんの少しだけ人の温かさを感じられるようで。
「その状態では無理か」
ライは呆れたように息を漏らすと、私の顎を強引に掴んだ。グイッと上を向かされ、その拍子に錠剤が口内へ転がり落ちてくる。けれど、まだ喉元を動かさない私を見て、彼は鋭く目を細めた。
「飲み込め」
有無を言わせぬ彼の声に、瞳に、身体が操られてしまう。ごくりと、飲み込んでしまった。
ーああ、もう私は……。
絶望の底に突き落とされた筈なのに、今になってライの瞳が優しく揺れているように見える。
ーもしかして、本当に眠る、だけ?
「誰だ……っ!」
その時、この家のすぐ近くで車のエンジンが切れる音がした。
「奴が戻って来たのか……?」
「いや、エンジン音が違う」
バーボンとスコッチは咄嗟に銃を取り出し、階段の方を伺っているけれど、ライは冷静にそう言いながら考える素振りを見せている。そうして私の方を見ると片手で私の背中を支え、もう片方の手を鳩尾に添えた。
「すまない」
そう耳元で囁かれた後、腹部に襲ったのは鋭い痛み。それは一瞬の出来事で、私は何も分からないままその場で意識を手放した。